震災

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長文です。思うままに書いたため意味不明です。

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11年前のあの日
私は横浜にいました。
大学卒業後、就職した会社が東京に本社(当時)があり
住んでいたのが横浜だったからです。

その頃、私は幕張までクルマで通勤していました。
その朝、少し寝坊したため
おお急ぎで服を着替え、クルマに飛び乗って湾岸を飛ばして会社に向かいました。

途中、CDを聞いていたため何も知らないまま会社に到着。

自席のあるフロアに着くと
なにか、いつもと違う雰囲気が漂ってた。

そう、妙にフロアに人がいない。
いる人も何か、落ち着かない様子。

そうのうち、広島出身の上司が足早に近づいてきて
『○○の実家関西やったな。実家大丈夫やったか?』
朝から、何を言ってるんだこの人は・・とおもいながら
『何かあったんですか?』
と聞いたら
『なんや、ニュース見てないんか!
すぐに喫煙コーナーに行ってテレビ見て来い!』

その様子からただならぬものを感じて小走りに
喫煙コーナーに。

その会社は各階に幕張メッセが見える10畳くらいの細長い喫煙可能な部屋があり、そこにテレビが設置されていて休憩できるようになってたのです。

その部屋に入ってびっくり。
かつてないくらいの人数の方がそこにはいました。
ほとんどしゃべる人がいない状態で。

みんなの視線はテレビに注がれていました。

テレビを見ると・・そこに映されていたのは戦後の焼け野原のような風景でした。カラーであることを除けば。

画面に表示されている文字を見ると
関西で地震発生・・

頭が真っ白になり、呆然と見慣れた街が燃えている映像を見ていました。
何が起きたかは判ったのですが、どうしても吸収できなかったのです。

先ほどとは違う上司が、
『連絡取れた?』
と声をかけてくれたおかげで、われに帰ることができた・・

公衆電話のほうをみると長蛇の列。
『会社の電話使ってもいいよ』
といっていただけたのですが
その当時、残業がすごかったため
固定電話を解約して、携帯を持っていた私は
それで、かけてみた。

しばらく、呼び出しが流れた後、オヤジの声が耳に入った。
こんなにオヤジの声が聞けてうれしかったことは、後にも先にもない。
それくらいうれしかった。

他の家族の安否を聞くと
『全員無事。親戚も全員大丈夫。神戸のほうのも大丈夫。
今から、神戸の連絡取れない家にXX(弟)とクルマで確認しにいってくる』とのこと。

気をつけて、と伝え電話を切る。

後で知ったのだけど、私はかなり運が良かったらしい。
固定電話からかけても、そのとき既にほとんど関西圏にはつながらない状態だったそうだ。
携帯の回線は経由が別なのでつながったらしい。

また、うちの一族はそれ以前から携帯を持っている人が多く
お互いの安否の確認や、助け合いがスムーズだったようだ。

・・今だったら、きっと携帯もつながらなかっただろうな・・


その日、早退しろ、と上司から言われたが
早退したところで、公共機関使ってあちらにいく手段もなく
クルマでいけば緊急車両の邪魔になっている流入車両のニュースも既に見ていたので、とりあえず定時までは仕事をした。

『なにかできることはないだろうか』

と思ったが、できそうなことはなかった。
ただ、ニュースで見守るだけ。

『帰ろう』

その会社を退職した理由は、いくつかあった。
実際退職届もそれまでに出していた。
留意されて、保留にしていたけれど。

それから、仕事が収束に向かったので
辞表を再提出。再考もお断りし
1995年、帰郷となりました。

帰ってから、神戸に行きました。
阪神高速の倒壊した部分はきれいに撤去され
倒壊したビル・建物は空き地になっていました。

改めて、目頭が熱くなったものです。

結局のところ、被災した方々に対してなにもできることなく今日を迎えています。


・・それ以来、連絡の取れなくなっている友人が数人います。
彼らの実家の連絡先は知らないし、
共通の友人も知らないため連絡のとりようがない。

元気にいてくれれば・・


あのひどい状況の中助け合っていた方々のこと

親身になっていろいろなボランティアをして下さった方々のこと

メリケン波止場のビルを飾った、エールの文字。

全て忘れてはいけない、大切な記憶です。
伝えていかなければいけない記憶です。
とても辛い記憶だけれど。

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